こんにちは。

 
※はじめに注意です。

今回は盗撮についてのニュースを扱いますが、わたしは盗撮を肯定しません。犯罪行為と認識していますし、罰されるべき、防止されるべきだと思っています。

以降、本文中に、「盗撮を否定するわけではない」と読み取れる文章が登場する可能性がありますが、それはそれ以上の意味はなく、わたしは常に上述の前提に立っています。

誤解を招かないように気をつけはしますが、読者の皆様におかれましても、以上を念頭に置いてお読みいただければと思います。

 

さて。

「道になりたい」の人、再犯したらしいですね。

「側溝に5時間いた」…のぞきの疑いで28歳男を逮捕 (朝日新聞デジタル) - Yahoo!ニュース

前回も、見つけた人はそりゃあもう(ホラー的な意味で)怖かっただろうなあと思ったので、よく覚えてました。

今回は、このニュースと、それを見て思い出したことから、わたしが抱いている次の疑問について考えてみようと思います。

それは、切り取られた身体は一体誰のものなのか?という疑問です。


側溝盗撮と「脚」盗撮

昨日このニュースを見て、ふと思い出したのが、何年か前にTwitterで見かけた、コミケでの盗撮に対する注意喚起のツイートです。

ちょっと探したのですが、だいぶ前なので見つからなかったので、うろ覚えですが。

内容としては、「最近コミケで脚の盗撮をするやつが出没している。コスプレイヤーのみならず、ミニスカートやショートパンツを履いた売り子、一般客も被害に遭っているので注意されたい」というものでした。

「脚」という部分のみを狙い、多数の女性の該当部分を撮影しようとしたその脚盗撮犯と、今回の側溝男は、なんだか似ているなあと思ったのです。

 

たぶん、わたしが気になった部分は「個人を識別せず、脚やパンツ(局部)といったパーツのみに執着しているように見える」という点なんだと思うんですね。

「この娘可愛いからパンツ見たい」ではなく、「女性の脚を見たい、写真に撮りたい」「女性のパンツを見たい、写真に撮りたい」という動機だと思うんですが、わたしが気になっているのは、その動機そのものというよりは、犯人たちが向けている視線のベクトルと、こういったニュースに対峙した時に女性たちが感じているベクトルが噛み合っていない? ように感じる? という部分なのです。

 

「パンツ」を撮ったのか、「私」を撮ったのか

※再び注意です。

まず何より優先されるべきなのは被害に遭われた方の心理状態だと思います。被害に遭われた方が傷つくのは当然だと思います。

そういった方々にはなんの落ち度もありませんし、犯人は罰されるべきだと思います。

ここから先には、被害者の方々の思いや考えとは、違う意見、見方が出てくるかもしれません。

しかし、それは被害者の方を否定するものでは決してありません。

犯人に寄り添うつもりはありませんが、犯人の心理状況を想像してみようとする試みが含まれます。

ここまでの説明で、不快になりそうと感じられた方は、申し訳ございませんが、ここから先をお読みになるのはご遠慮いただければと思います。

ご了承いただけましたら、引き続きお読みください。

 

「道になりたい」のニュースで、犯行があった道を利用する女性へのインタビューをやっていました。

主に20代くらいの女性たちで、みんな「こわい」「気持ち悪い」と、恐怖感や不快感を露わにしていました。(とはいえ、少し笑っちゃっていたのも印象的でした。その気持ちはわかる気がします)

んで、わたしはそれを見て、「ふーん、そんな感じなのかぁ」と思ったんですね。

というのも、わたしは、そんなに自分ごととして捉えられなかったからです。

わたしがこわいと思うのは、「側溝覗いたら目があったらすごく怖いだろうなあ」というその一点のみで、「側溝の中からパンツを見られている」ことにはそんなに恐怖を覚えない、覚えられないのです。

 

インタビューの女の子たちは「階段とかなら(スカートの中が見えないように)気を付けるけど、こんなところ(平たい道)では気をつけられない」と言っていたので、彼女たちが「こわい」「気持ち悪い」と言っていたのは、あり得ないところから人の目玉が覗いていることではなく、知らない男が自分のパンツを見ようとしていることだと思って、おそらく間違いないと思います。

そして、この感覚は至極真っ当だと思います。

 

たぶん、わたしの感覚の方がずれていて、それはなぜかと言うと、わたしは「見られる」という体験ではなく、犯人の目線、つまり、「彼は何を見ようとしていたのか?」に重きを置いて見てしまってるからです。

そして、「彼は何を見ようとしていたのか?」の答えは、おそらく、「女性のパンツ」であって、「私」ではないと思うのです。

仮にその時見られたものが、「私の所有物であるパンツを着用した私の局部、並びに脚部」だったとしても、犯人の「道になりたい」さんからすると、その目の前の物体に「私」という要素は一切付与されておらず、それは単に「女性のパンツ」という彼の求める概念(しかもそれには「道になったような視界で体験する」という条件が付与されている)の具象化のひとつの形にすぎないのではないかと。

だから、つまり、彼は「私」を見、盗撮したわけではないと思うのです。

 

まあ、だからと言ってやっていいわけでも、許されるわけでも当然ありません。

実際に「見られた」人にとってはおそろしく、不快な体験であったことは容易に想像できますし、本当に迷惑な行為だと思います。しかも再犯。

 

なので彼ベースで語るのはここまでにして、ここからはわたしベースで考えていきましょう。

わたしにとっては、彼の目に映る、「個人性が排除された女性のパンツというイデアの具象化」は、もはやわたしだとは感じられないのです。

わたしは切り取られた身体の一部の視覚的情報を、自分のアイデンティティに含めていないということだと思います。

実際、ほかの方はどうなのでしょうか? 脚盗撮問題で言えば、本当に、脚のごく一部分が切り取られた写真を見て、「これは“私”だ!」と思うものなのでしょうか?

 

切り取られた身体は誰のもの?

おそらく、今回の疑問を本当に精査するためには、フェティッシュを持ち出さなければならないと思います。

ですが、まあ、このブログはあまり専門的になりすぎない(というか、そこまで調べられない)のもアリというスタンスでやりたいので、今回は参考資料なしで、わたしの頭のなかのことだけで書いております。

 

といいつつこんな言い方になってしまうのですが、身体に向けられる視線というのは、とても細分化されてきていると感じています。

これは、「要素萌え」的な消費スタイルの延長なのではないかと思います。

このキャラクターの全体が好き! ではなく、ツインテールが、ピンク髪が、ツンデレが、好き。そういう好意や欲求の持ち方が今ではごくごく一般的だと思います。

例が漫画アニメ的な文法に寄りすぎてしまいましたが、要素はなんでもいいのです。要は、似た要素を持ったものなら代替可能な好意、欲求なのです。

これが、昔は無かったかと言われると、そう断言する根拠をいまわたしは持っていません。

昔からある消費スタイルかもしれない。でもたぶん、インターネットの発展、とくに情報の受け手だった消費者が自ら情報発信することが一般的になったことで、それが表面的になり、そういった消費スタイルが肯定されているような空気になってきた、ということは言えるんではないかなと思っています。

キャラクターとか、ものとか、そういうものに対しては、別にこういう「要素萌え」をしてもあまり問題はないと思うのですが、この視線が「ひとの身体」に向くと、なんだか少しややこしくなる気がします。

キャラクターそのものには作者がいますが、キャラクターの要素自体には所有者がいません。

でもひとの身体には、所有者がいます。

 

本来的にはひとの身体は切り取れない(物理的な意味で)のですが、視線や、その代替物としてのカメラで、擬似的に切り取ることが可能です。

もちろん、写真という表現は昨日今日出て来たものではありませんし、その歴史の中で、身体の一部のみを切り取った作品がなかったとも言いません。

 

…なんか、今更な話ですし、犯罪を起点にしているので誤解を招いてしまうような話の展開になってしまったなあと、書きながら気づきました。すみません。

書くことで整理してる部分が大きいので大目に見てください。

 

さて、話を戻して。

時代性でないにしても、その擬似的に切り取られた身体は、すでに「その身体の所有者」のものではないのではないか? という疑問は成立するかと思います。

個人を識別するのは、視覚的にはやはり顔が一番のポイントになるかと思います。ついで背格好などの全体的なシルエットや印象、そのほか、特徴的な黒子や傷があれば、それもポイントになるでしょうが、そういうものがない場合、部分的になればなるほど、個人を識別することは難しくなってきます。

たとえば、AKB48のおそろいのライブ衣装を着た、その靴下とスカートの隙間、いわゆる絶対領域だけを切り出して、その人物を当てることは出来るのでしょうか

もしかしたら、コアなファンなら出来るのかもしれませんが、普通は無理だと思います。

そして、本人も、わからないんじゃないかと思います。

そうなった時に、その画像に写っている絶対領域は、誰のものなのでしょうか?

 

何度も言います。

盗撮されて不快なのは当然です。嫌がっていいんです。犯人がやったのは悪いことで、許されないことで、罰を受けるべきなんです。

だから、わたしがこう思ってしまうのは、わたし自身のコンプレックスによる認識の歪みのせいも、きっと多分にあるのでしょう。

でも今回はそれを棚上げして言います。戯言なので真に受けなくていいです。

 

どうしても、わたしには、「脚を盗撮された」、とか、「側溝からパンツを覗かれた」という感覚が、すんなり入ってこないのです。

切り取られた身体はすでにわたしのものではないと思ってしまうのです。

盗撮行為、あるいは(隠された部分を故意に暴く)覗きという行為は、処罰の対象で、許されるべきではない。それはすんなりと落ちる。

でも、それ以前に、そういった犯罪行為に走るまえに、彼らが視線を用いて「私」(彼女たち)の身体を切り取っていることは、罰することも、止めることも出来ないと、思ってしまうのです。

切り取られた身体が自分の所有物でないとしたら、主張できるのは「私の身体を勝手に切り取らないで!」ということだと思うのですが、写真という有形物として勝手に切り取ることはやめさせられますが、見ることをやめさせることは出来ない。

だとしたら、根本的には解決してないような気がするなあ、とも思ったりしてしまうのです。

 

今回は着地点を設定できないまま書きはじめてしまったので、なんだかまとまらない話になってしまいました。

オチはないのですが、冒頭から言っているように、「切り取られた身体は誰のものなのか? その身体の持主のものなのだろうか?」という疑問自体を、言いたかっただけというのが、本音かもしれませんね。

まとまりませんが、今日はこの辺で。